福井豪雨における砂防堰堤の効果

辻岡俊三(Shunzo Tsujioka、福井県今立町長)

「砂防と治水168号」(2005年12月発行)より

はじめに
 福井県今立郡今立町は,福井県嶺北地域のほぼ中央,武生盆地の東の端に位置し,東は池田町,西,南は武生市,北は鯖江市に接していて, 総面積45.43km2で,東西約10km,南北に約6.5kmの広がりを有する,人口13,909人(平成12年国勢調査人口)の町です。町の7割を占める森林は,主に東部に広がっており,その中心の権現山周辺にはブナの原生林が残るなど,豊かな自然環境を有しています。川はこの山地を水源として,5つの河川(鞍谷川,服部川,水間川,月尾川,岡本川)が町内を北あるいは西へと流下しています。
 道路は国道417号線が東西方向に町内を横断し,主要地方道武生美山線とともに武生・鯖江方面及び池田・岐阜県方面へ連絡しています。また,主要地方道福井今立線により鯖江市東部,福井市及び武生市東部方面へと連絡しています。また,北陸自動車道の武生・鯖江両インターが西側に近接しており,関西,中部,北陸地方へと連絡しています。
 1955年(昭和30年)粟田部町,南中山村,服間村の1町2村の合併により,新しい粟田部町が成立。翌1956年(昭和31年),栗田部町を今立町に名称変更し,岡本村を編入合併,平成17年10月1日,合併50周年記念日に隣接の武生市と合併し,「越前市」となる予定です。
 「この付近の治水の歴史は今から1500年前に遡ります。当時この付近は「越の国伊万太千郡(コシノクニイマタチゴオリ)」と呼ばれていました。当時の越前一帯は低湿地で江沼が多く,福井市の辺で海抜10m位の低地であり,安定した標高30mの高さの平地となると,今立郡の八谷(戸ノ口谷・河和田谷・服部谷・水間谷・月尾谷・岡本谷・鞍谷・文室谷)か,武生・大虫のあたりしかありませんでした。
 後に継体天皇となる男大迹王(オオトノオウ)が越前の国にいた50年間に,王は越前平野の三大河川の水門口を開くなどして,沼地を耕作地に変えることに尽力し,製鉄・和紙・漆器・機織り・笏谷石などの各種の産業に力を入れました。そのため当時の丹波や山城の国から越前に人口が多く流入し,手工業生産が越前では大きく発展して古代の一大コンビナートとなりました。特に今立郡は越前国府に近接した土地柄だけにその技術も高度に発展したことが伺えます。それから一千年以上の祖先の営みから,岡本谷の和紙,服部谷の機織り,漆器,粟田部の鍛冶や町商い,中山の倉と河船津などが繁栄した歴史を考えるとき,政治による治山治水と産業の発展が密接な関係にあることが伺えます」(地元歴史研究者 渡辺光一氏談)
 現在の今立町の主な産業も,繊維業をはじめ,伝統産業の越前和紙や越前漆器,眼鏡枠などの製造業が中心となっています。
 今立町の地形は,町内4谷から流れる4つの河川が,谷を出て平野部にある里山(通称:三里山)にぶつかるところで隣接の武生市の谷から流れる鞍谷川に合流し,1本の川となって北へ流れています。今立町の市街地は,この合流地点に広がっています。各河川は長年の改修により,ほぼ直線に流れているので,上流部で大量の雨が降った場合は,時間をおかずにすぐに下流の市街地に流れ込むことが予想できました。
 このことは都市計画上の大きな問題点となっていて,特に各河川の上流部の保水能力の低下が議論になっていました。保水能力を低下させたものとしては河川の護岸改修や直線化,戦後,杉の植林を奨励したために,保水機能をもつ広葉樹との複層林がなくなってきたこと,上流の水田の管理が労力不足のために,放置されるところが増えてきたことなどが挙げられます。福井豪雨は,このような要件の中で発生しました。

福井豪雨の状況
 平成16年7月18日,日本海から北陸地方(福井県)に伸びる梅雨前線の活動が活性化し,強い雨雲が福井県嶺北地方に流れ込んだ。
 福井県の嶺北では,18日の0時過ぎから所々で激しい雨を観測し始め,特に18日の明け方から昼前にかけては嶺北北部を中心に1時間に80mm以上の猛烈な雨を観測した。
 降り始め(17日15時)からの総降水量は,嶺北北部の美山町で285mmとなった。18日の昼頃からは雨は小康となった(福井地方気象台記録より)。
 今回の豪雨は今立町東部の権現山と,その奥の池田町・美山町との間にある部子山に雨雲がぶつかり大量の雨を降らせました。正に局地的な集中豪雨でありましたが,この付近は前述の八谷に流れる8本の河川と福井県を代表する河川である足羽川の上流であったため,鯖江市,今立町,池田町,美山町と足羽川の下流にある福井市に甚大な被害を及ぼしました。
 今立町では明け方より梅雨末期と思われる雨が降っていましたが,6時頃一旦止んだので特別に気にはなりませんでした。
 7時半頃,突如激しい雨が降ってきました。よくバケツの水をあけたような雨と表現されますが,その時の感はそんなものの比じゃありませんでした。家の前の道は川のように水が流れ,川はみるみる増水し,家の裏山からは滝のような水が家を巻いて流れていきました。
 この日9時17分には時間最大雨量85mmを計測しました。あとで町内のお年寄りどなたに聞いても今まで経験したことがないと口を揃えるほどの豪雨でした。
 7月18日の今立町の24時間雨量は服部川上流部で301mm,市街地で206mmを記録しました。平成16年7月の1カ月の総雨量が,福井地方気象台の記録で254mmなので,この日(正味5時間)で降った雨の量が如何にすごいかが伺われます。
 今立町役場は,午前7時45分に町職員全員の非常召集をしました。その間も各地から土砂崩れ,河川の氾濫の情報が入り続けました。登庁してきた職員を現場状況把握のために派遣すると共に,各地に避難勧告を出し続けました。
 9時15分に災害対策本部を設置したのち,市街地の中を流れる一級河川鞍谷川の決壊の恐れがでてきたために,約300世帯に避難勧告をしたところで午前11時にはすっかり雨は止みました。その後,河川の増水は続きましたが,夕方には河川に流れる水も殆どなくなり,市街地では消防団員による水が引いた後の道路を洗う光景も見られました。
 ところが水が引くと同時に,今回の被害の大きさが徐々に現れてきました。特に情報が遅れていた各谷の奥の情報が入ると,甚大な被害報告が現れてきました。
 今立町では死者1名,また家屋被害は全壊2件,半壊5件,一部損壊23件,床上浸水271件,床下浸水586件と,町内家屋の約24%に何らかの被害を受けました。被害額も推計で4億5千万円にもなり,農産物,工業の被害と合わせると莫大な被害額となりました。

被災状況(今立町柳)
(写真:福井県砂防海岸課ホームページより)

被害を大きくしたもの
 今回の福井豪雨被害は大きく分けて3つありました。河川上流部の土砂災害被害と,中流部の破堤による被害,そして下流部の越流による家屋浸水被害です。今立町ではこの3つとも被害を受けました。特に谷の奥河川上流部の集落での家屋被害が大きくなりました。
 大量の雨が一気に降ったため,水と土石と流木が村中の河川に流れ込みました。土石と流木が川を埋めてしまったために,行き場のなくなった土石流が家屋に入り被害を拡大させました。ではこの土石・流木がどこから出てきたか,今日までに話されてきたことをまとめてみました。
 まず戦後の造林振興により雑木の山を整備し,杉などの針葉樹の山に変えてきました。この杉も樹齢50年を経て間伐する必要がでてきたため,その作業のための林道,作業道が多く開設されてきました。この道路は岩を砕き,木を伐採して道路を付けていますが,岩・木材等はそのまま道路敷や道端に放置されたままでした。今回はこの岩や木材が一気に流れ出したものと考えられます。
 次に戦前はこの地方の山間集落では山の方まで棚田が作られていて,その基礎として石積みをしていました。戦後,効率の悪さからこの水田の多くが放置されたり杉林に変わったりしています。杉はその特性で根をあまり張らないので,今回は棚田の跡に植えた杉がそのまま根こそぎ倒れ,石積みの石と共に流出したものと考えられます。杉でもとなりの池田町などでは100年以上を経ている杉林は今回の豪雨でもビクともしなかった事実があります。
 次に山間部の集落は,集落の中心に川が流れ,それから両側に坂を上っていくように家が建てられています。車社会の現在,山間部の多くの家では夜自宅前に車を止めていて,夜間車庫入れをしてない家が多い現状です。今回この車を山からの土石流が押し流し,河川に入り,土石・流木と共に川をせき止めることになりました。さらにこのような集落では河川をまたいで,各家へ出入りするためのコンクリートの簡易な橋などが,上流からの木材をせき止めるダムのような働きをしました。そこで行き場を失った上流からの激流は,付近住宅を巻き込む流れとなりました。集落の人は当日のことを「水が三方から家に流れてきて,瞬く間に家の中の物全てを流していった」と語ってくれました。
 しかし,これほどの災害の中でも,余り被害を受けなかった集落が多かったのも事実です。その一番の原因と考えられるのが砂防堰堤による効果でした。県の被害調査員が「今立町には思ったより多くの砂防堰堤があるのですね」と驚くほど町内には砂防堰堤や治山堰堤が多く設置されています。
 砂防堰堤が有ったか無かったかが今回の豪雨被害の大きな明暗となったようです。

砂防堰堤の効果
 柳集落は一級河川服部川の上流,砂防河川岩窟谷川沿いにある集落です。岩窟谷川は上流で同じ砂防河川の前谷川に分かれます。岩窟谷川には5つの滝があり,総称して「柳の滝」として今立町の一つの観光地となっています。風光明媚な滝がある反面,集落のすぐ後ろに岩山があり,川には多くの岩があるため,2つの川は土石流危険渓流となっていました。
 福井豪雨では,この集落は川沿いの家屋を中心に全壊1件,半壊5件,一部損壊3件,床上・床下浸水7件と,集落全世帯24件のうち半分以上が被害を受け,町内で被害が最も大きい集落になりました。この集落の被害を大きくした原因も先に述べたとおりでした。
 しかし復旧作業の際,埋まってしまった川の土砂を掘り上げてみると,元の三面張の護岸がきれいに現れ少しも痛んでいませんでした。
 更に驚いたことがありました。平成10年に前谷川の上流に完成した砂防堰堤が満砂状態だったことです。この堰堤は高さが13.5m,堰堤の幅55m,貯砂量4,070m3ですが,中央部が切れているスリット型なので,その効果について建設当初は地元の人から疑問視する向きもありましたが,その効果が実証された形となりました。捕捉した土石や木材が下流の集落を直撃した場合には,集落のほとんどの家屋が被害を受けたことと思います。(詳しくは福井県ホームページの中の砂防海岸課「福井豪雨時に効果を発揮した砂防堰堤の一例」に記述があります)
 大滝は砂防河川岡本川の上流にある集落です。この付近は昔から美しい水が流れるので,1500年の昔から手漉き和紙の産地として栄え,今日では越前和紙として全国的に有名になっています。現在でも手漉き和紙の生産額では日本一です。
 この紙漉きに水は欠かせません。集落を流れる岡本・神宮川の2つの河川は紙漉きを生業としている村人にとっては重要な川であり,この川の水でないといい紙が漉けないとお年寄りは言います。
 この集落が狭い谷間にあり,その中に約300件の家屋・和紙工場が密集しているために,昔から川の拡幅ができずに一部区間では川が道路の下を流れているところもある状況です。
 そのため,この集落は過去に幾度か水害を受けています。新しいところで昭和40年の台風24号では集落の上で地滑りが発生して10名が亡くなっています。平成10年には梅雨末期の集中豪雨があり,67件が床上・床下浸水被害を受けました。
 この時の被害(特に工業被害)があまりに大きかったために,県は既に整備されている岡本川に続いて,平成12年度より神宮川の砂防事業に取り掛かりました。この事業は上流に堰堤2基を建設し,道路下を流れている川の機能を拡大するために,300mにわたり,幅3m,高さ2.6mのカルバートを入れる工事が予定されています。
 この工事のうち上流の2つの堰堤が完成して間もなく今回の豪雨がきました。今回は集落の半数以上の家屋が何らかの被害を受けました。ただ被害は床上・床下被害と,あまりの激流による損壊のみで土石流の被害はありませんでした。水害後,新しい砂防堰堤は両方とも満砂状態で,この土砂が集落に届いていたら相当の被害を受けたかと思うとゾッとします。

土石流を捕捉した砂防堰堤(今立町前谷川)
(写真:福井県砂防海岸課ホームページより)

水害後の動き
 福井豪雨後,被害の大きかった集落を中心に,砂防堰堤を要望する声が高まりました。今立町ではいち早く各集落で同意書をとり,土木事務所を通して県へ要望しました。県も要望を受けていただき,平成16年度に緊急砂防堰堤11基,平成17年度に激甚災害特別事業で9基が建設される運びとなりました。また町では今回の貴重なデータを基礎に,防災計画の見直しに着手しており,次に予想される災害には必ず生かせることと思っています。