災害は忘れないうちにやって来た

矢ヶ崎克彦(Katsuhiko Yagasaki、長野県辰野町長)

「砂防と治水174号」(2006年12月発行)より

 当町は信州伊那谷の北端,日本列島のほぼ中心に位置し,天竜川が中央を流れ,北・西は塩尻市,北東は岡谷市,東は諏訪市,南は箕輪町・南箕輪村に接していて,古来より南信(南信州)地域における交通の要所として知られています。町の南部を除き,三方を山に囲まれ,町の総面積169km2のうち,83%が山林で占められています。言うまでもなく山紫水明の地であり,夏の風物詩でもあるゲンジボタルは,環境庁の「ふる里生き物の里」や,県の天然記念物にも指定されており,発生最盛期の6月中旬には,町をあげて「ほたる祭り」が盛大に開催され,毎年約20万人の観蛍客で賑わいます。その「ホタル」は,自然と共存する生き物であり,水環境のバロメーターでもあります。幸いにして当町は前述しましたように,山地の多い地形であり,自然の恵みは計り知れないものがあります。しかし反面,ひとたびの自然災害で,大きな打撃を受けることも事実です。

平成16年10月 台風来る
 今は遡りますが,平成16年4月,長野県の諏訪市同様,辰野町でも「御柱祭り」が盛大に行われ,地元氏子はもちろん,県内外から「あの勇壮な祭りを一目見よう」と観光客が押し寄せました。目通り1メートルを優に超えるご神木は,善男善女により遠い山中より里を通り,明神様まで曳きつけられます。7年に一度神社の建て替えの代わりとして,4本のご神木を,神社を囲んだ四隅に建立する行事です。
 そのお祭りムードもようやく去り,各神社の境内も高くそびゆる御柱を残して,平静さが戻りました。その静寂もつかの間,暑い夏が過ぎ去った平成16年10月,来るものが来ました。台風です。
 22号は風雨を伴って10日前後に本州へ襲来し,中小河川の氾濫,土砂崩れをもたらしました。収穫を前にした農作物や農地に打撃はあったものの,大災害には至らず,一時は胸を撫で下ろしました。しかし,その矢先,わずか10日後の21日です。台風23号が続いて襲ったのです。それは凄いものでした。前回の台風により山地には大量の水を含んでいた上,地盤が軟弱になっている所へ「豪雨」が襲ったものですから,大災害になるのは必至でした。町の災害対策本部には町内の各地から「土嚢をくれ。○○が崩れた。道が通れない」と言った情報が引っ切り無しに飛び込む。外は日が暮れ,夕闇が迫り始めた矢先,今度は,とんでもない情報が入った「電車がひっくり返った!」というのだ。本部に居た私も慌てました。「場所はどこだ!乗客はどうなったか!」と,確認を急がせました。場所はすぐ分かり,乗客も4名程で怪我もなし。とりあえず胸を撫で下ろしました。幸いなことに,豪雨のため定刻運行も無理な状況でもあったため,本来その時間に利用する乗客も,早めに帰宅して
最少人員であったようです。
 雨の降りしきる中,私も現場へ直行しました。二両編成の上り電車が土手下に仰向けの状態で,ひっくり返っていました。乗客が大勢乗っている時間帯でなかったことが,不幸中の幸いでした。
 災害対応で仮眠もそこそこに,一夜明けたその日は,未明まで降っていた雨も,ウソのように,穏やかな青空の見える日でした。朝から電車脱線転覆を伝えるヘリコプターが現場上空を旋回して,落ち着かない日が始まりました。転覆の原因は,現場を流れる農業用水路に落石があり,溢れ出した水が大量に窪地に溜まり,鉄砲水のように一気に線路の盛り土を洗い流したことによる,線路の宙吊り状態によるものでした。
 各地の被害の状況が明らかになるにつれて,被害が甚大であったことが分かりました。前述したように,山地に加えて渓谷の多い地形にあっては,雨水の保水力は,かなりあるものの,飽和状態になった場合は,どのような状態になるかは目に見えています。俗に言う昔人の言を借りますと,「こんな降り方は生まれて初めてだ」「こんなに大水の出たのは初めてだ」と。地球温暖化による影響か…と囁かれる昨今,このような今までなかった局地形集中豪雨による自然災害は,今後も時々起きるのでは,と関係者が口にしていたことを覚えています。
 このときの災害にあっては,人身の災害は無かったものの,大水による橋の流出,護岸の決壊,道路の崩落,農地への浸水等で,被害は町内全域に及びました。この災害も国・県の迅速な対応により,何事も無かったかのように,その多くが原形に復旧し,その用に供してまいりました。
 この災害を振り返った場合,「未然に防ぐことが出来なかったのか」とか「台風の進路は予測されていた」「○○しておけば防げた」と言った放言が聞かれ,私も胸を痛めたことも事実です。いずれの場合も予想出来て対応が可能であれば「災害」というものは起こらないものと思います。
 治山・治水事業を計画遂行していく上で,言葉にされるのは「百年に一度」という,いわゆる基準ともされる言葉です。そして「脱ダム・コンクリート構造物の是非・景観」など話題になった時期もありました。自然の猛威に勝てるものは,対等かそれ以上の物を持たなくては,打ち勝つことは困難です。その点で治水ダム,砂防ダム,護岸に力を入れることが,いかに大事なことか,大切であったかを,この災害で,この時点で感じたのは,私だけではなかったはずです。

一年半の時を経て豪雨に見舞われる
 そして時は一年半流れて,今年7月,それは起きてしまいました。活発な梅雨停滞前線の影響で,辰野町の降雨量は,降り始めの15日から19日までに421ミリと記録的な雨量となりました。その雨量は,以前の「小谷村の大災害」の雨量400ミリを上まわり,この大雨で天竜川をはじめ,町内の中規模河川,小河川,農業用水路などが氾濫,18日夜ころから町内各所で土砂崩れや道路,護岸の決壊,住宅の床上浸水などの被害が相次ぎました。この時点で町では,災害警戒本部を災害対策本部に切り替えて徹夜で対応にあたりました。しかし,翌日になっても被害は拡大する一方で,土砂崩れによる行方不明者が2人,避難世帯は150世帯にのぼったほか,松本・塩尻圏と伊那・駒ヶ根圏を結ぶ大動脈である国道153号線が長さ80m,幅7mにわたって,上流にダムのある横川川(一級河川)の増水による,濁流洗掘により決壊し,すべての車両が通行止めになりました。この時点では頼みの中央道も不通となっていて,地元車をはじめ長距離運送トラックも現場で立ち往生してしまい,周辺地域は大混乱となってしまいました。屈指の交通整理の結果,現場はひとまず沈静化し,あとは早い復旧作業を待つこととなりました。その後は国・県をはじめ関係各所の方々は,急な陳情(要望)に対しても,的確な対応をいただき,完全復旧へ向けた突貫的作業に入りました。
 私は復旧作業の現場を見て驚きました。濁流が渦を巻く現場で,1トン土嚢(トンパック)の敷設が行われているのです。一歩誤れば二次災害にも・・・とも思いましたが,一刻も早い復旧を思って,身を張って作業をされている方々に,頭の下がる思いがしました。思わず「気を付けてくれよ」の言葉とともに。
 更に驚いたことに,土嚢には何と生コンが入れられているのです。私もその道は素人である故に,「何で生コンを使うんですか?」と伺ってみました。それは土嚢同士が密着して,より緻密な積み上げが可能であるということと,水中への敷設の場合は,コンクリートが固まる際に発生する熱の冷却作用を伴い,早い段階での護岸が可能である,との説明を受けて,私なりに納得したことを覚えています。
 このような段階を経て,お蔭様に県職員の対応の早さと行動力,加えて建設業者,各プラント関係者には土日も無く,早朝より夜半まで作業をお願いしたことにより,復旧工事は順調に進み,予定より7日も早く通行可能に漕ぎつけていただき,一日千秋の思いで待っていた私共にとって,正に暗雲から太陽の光が差し込んだ気さえ致しました。業務に携わって頂いた方々に重ねて御礼申し上げます。
 基幹道路の復旧に一目置く中,住宅の被災も激甚でありました。そして残念なことは土砂崩落の際に,住宅ごと尊い1名の命を,また直接土砂に巻き込まれた女子中学生,関連で2名の命を失ってしまったことです。加えて町内2箇所の住宅地において大崩落があり,貴重な財産が失われる結果となりました。いずれの場所も崩落の予想が全く出来なかったところであり,そのメカニズムの解明が強くもとめられるものでした。
 幸いにも地元大学や地質調査チームの研究により,その一部が解明されつつあります。その中で,現場は当時,長野県から北海道まで,国策として植栽したカラマツ林であり,土砂災害に弱く,今回のような,いわば洪水型土砂災害には,特に持久力に欠ける。強い地形にするには,木の根が真っすぐ下に伸びる「直根」が発達し,隣接する木の根が交じり合う「ネット構造」という本来の自然に近い森林造りが必要である,とのご指摘に加え,それを人工的に克服するには,造林時に自然型の林を造るためにも,灌木や広葉樹等の造林に加え,保育ブロック工法(土壌ブロックに貫通穴や溝を設ける)で育てた苗の植栽により,傾斜地にも強い植物群落の造成が期待出来る。など多くのアドバイスもいただくことが出来ました。
 今回の災害では,住宅等の全壊6棟,半壊・一部半壊9棟,床上・床下浸水217棟,死者4人という大惨事になりました。これに対しては国からは,速やかに自衛隊員の派遣をいただき,内閣府から官房審議官,国土交通省河川局からは防災課査定官らが,災害の爪跡が生々しい現場視察もしていただき,早期復旧と各種災害の法指定についての足がかりも築いていただきました。激甚災害に指定していただきましたことや,これまでの一連の対応につきまして,被災地・被災者に成り代わりまして,心より感謝申し上げます。

やはり砂防えん堤は効く
 話は結びになりますが,前述しましたように,「このような災害は初めてだ」の声のように「未曾有」の災害であったことには間違いありません。そして住民の声の中にこんな話もありました。「やっぱり砂防ダムは効くわ」「あのえん堤が無かったら,ここらの家は全滅だったわな…」など。当町の区長会でも,そんな話がしきりでした。
 県の施策において,ダムなし・コンクリート構造物の抑制など,話題となっていましたが,結果として,特に急峻な高山を背する,流量差の激しい地形にあっては,砂防ダム・砂防えん堤は大きな効果を発し,設置箇所での災害は微小で済み,多くの関係者からは感謝の言葉が聞かれたのも事実ですし,そして何よりも多くの人命・財産がそれによって救われたことも事実です。
 山地面積が多く渓谷も多い当町にあって,わずか1〜2年のうちに二度の大災害に直面しました。「備えあれば憂いなし」とも言われます。治山・治水事業の整った場所においては,災害は縮小されたことが実証されました。そして「災害は忘れないうちにもやって来る」ことも。