平成18年7月豪雨に対応して

小坂樫男(Kashio Osaka、長野県伊那市長)

「砂防と治水177号」(2007年6月発行)より

○はじめに
 伊那市は,長野県の南東部に位置し,東に南アルプス,西に中央アルプスという二つのアルプスに抱かれています。市の中央を一級河川である天竜川が流れ,これに三峰川が注いでいます。平地の広がりには,田園,畑作地帯が開け,緑が美しい河岸段丘もみられる,豊かな自然と歴史・文化が育まれた自然共生都市です。
 平成18年3月31日に伊那市・高遠町・長谷村が合併して新「伊那市」として誕生しました。市内を南北に中央自動車道がはしり,東京・名古屋のほぼ中間に位置していることから,商工業にとって優良な立地条件であるといえます。平成18年2月に開通した権兵衛峠道路(国道361号)が,新たな交通・物流ルートに加わりました。
 春,多くの人々に親しまれ愛される桜の季節。伊那市には「天下第一の桜」と称される「高遠城址公園の桜」があります。公園内は約1,500本余のうす紅色のタカトオコヒガンザクラでおおわれ,高遠は桜一色の季節を迎えます。今年も30万人の皆様にお越しいただきました。また,仙丈ケ岳を中心とする南アルプス国立公園にも毎年多くの登山客が訪れています。
 気候は内陸性で,年間の日照時間が長く,冷涼で住みよい環境にあり,これまでの台風や集中豪雨でも大きな被害が出ることはごくまれなことでした。
 昨年7月17日から23日にかけての平成18年7月豪雨は,36災害,58災害を上回るような豪雨だったのではないかと言われています。特に,宮田高原から市内西春近,箕輪町,辰野町を経て岡谷市に至る線上では,土砂災害により多くの人命が奪われました。伊那市において,人的な被害がなかったのは幸運であったと痛感しています。
 今回の豪雨では,伊那市の中心部を流れる天竜川がかつてないほど増水し,周辺の中小河川が氾濫しました。特に土砂災害については,予測が難しいことを実感しました。洪水や土砂災害など,災害はどこにでも起こるということを改めて感じ,今後の防災を考える上で貴重な体験となりました。
 この災害発生からこれまで,関係諸機関をはじめ,多くの方々より,格段のご支援,ご協力を賜りましたこと,この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

○降雨等の状況
 昨年7月17日から21日までの梅雨前線による豪雨は,伊那市内のアメダス観測所で,431ミリの累積雨量を観測し,伊那市の平年における7月の月間降水量の三倍弱の降雨を観測しました。
 また,天竜川上流にある釜口水門の放流量が毎秒400tを超え,この異常な降水量と釜口水門の放流により,天竜川はかつてないほどの水位となりました。

増水した天竜川 落京した殿島橋

○初めての避難勧告
 天竜川の増水と土砂災害により,伊那市では約1万人に及ぶ避難勧告,避難指示を発令しました。このような広範囲に及ぶ避難勧告,指示は,合併前の伊那市を含めて初めてのことでした。避難勧告等の発令にあたっては,関係する機関と頻繁に連絡を取らせていただきました。
 特に天竜川の状況については,随時天竜川上流河川事務所と釜口水門の情報の提供を受け,天竜川沿線の被害想定地域の住民に避難勧告を出す際に,非常に重要な判断基準となったとともに,適切なタイミングで発令することができたのです。判断の基準として一番重要視したのは,北殿,伊那,沢渡の各観測所の水位と,釜口水門の放流量,諏訪地方の降雨状況でした。天竜川の中央橋上流部の避難勧告発令は,北殿観測所の水位が特別警戒水位に達したことを基準とし,また,殿島橋から下流部については,沢渡観測所の危険水位到達を避難勧告の基準としました。

○土砂災害について
 今回の豪雨で一番被害が多く,行政としての限界を感じたのが土砂災害でした。17日朝の長野地方気象台発表の大雨警報発令の頃から,市内各所で中小河川や農業用水路の溢れが報告されるようになり,大雨洪水警報に切り替わる頃から,土砂崩れの情報も入るようになっていました。
 18日になると大きな河川も影響を受けるようになり,天竜川の水位も見る見るあがり,その水位は,特別警戒水位に達しました。そんな中,19日未明に,今回土砂災害による被害が大きかった西春近の諏訪形区や沢渡区柳沢地区の情報が立て続けに飛び込んできたのです。
 柳沢地区の前沢川の土砂は中央自動車道をくぐる暗渠が詰り,閉塞したことで,土砂が道路へ出てしまい,その土砂が下の民家にまで及ぶというものでした。諏訪形区の貝付沢は倒木が詰り,水が溢れており,消防と地元が対応しているとのことでした。既に民家へ影響の及んでいる柳沢地区へ確認に向かった職員は,住民も寝静まっている中ではありましたが,戸々を回り避難を呼びかけました。


柳沢地区前沢川(19日早朝) 崩壊した県道中山松倉線

 そのうちに,夜が明けてくると,中央自動車道の上に刺さったように突き出た倒木,地区のそこここを流れる濁流など,光に照らし出された光景を目にし,驚愕したといいます。真夜中に流れ出た土石流が人的な被害に及ばなかったのは,中央自動車道で土砂の流出が止まったことによるところが大きいと感じています。
 諏訪形区の土砂の流出は留まることがなく,土砂は主要道路を塞ぎ,下の民家に及んでおり,大量の土砂が山積みになり,濁流は多くの田の土手を切り,応急的な処置を施すことくらいしかできない状態でありました。
 河川の増水は,降雨予測や釜口水門の放流量により,事前の対応をとることができます。しかし,土砂災害は,一定の降水量によって,避難勧告などを発令しようとすると,伊那市内全域に近い範囲に発令せざるを得なくなってしまいます。その場合,避難所をどこにするのか,規模等の問題から避難所に収容できるのかなど,多くの問題があり,到底全市避難勧告などできるものではありません。普段と違った現象が起こったら,自主的に避難していただくしかないのが現状です。
 長野県内では,この6月1日から運用された土砂災害警戒情報を有効に活用できるように,土砂災害危険箇所の市民への周知や,避難体制を充実させることが必要になります。


中央自動車道を塞いだ前沢川の土石流 諏訪地区の復旧作業

○情報の伝達
 避難情報の発信は防災無線,有線放送,CATV,緊急メールなど,なるべく多くのメディアに協力していただいて周知を図りました。今回の豪雨で発生した土石流によって,甚大な被害を受けた西春近沢渡区柳沢地区には,一番確実な方法である広報車と戸別訪問により避難勧告を呼びかけました。柳沢地区の避難勧告発令は,現場の職員に任せたことによって,現状の把握から避難の判断までの時間的なずれを最小限にすることができたと思います。
 しかし,避難所内には発信した情報を受信する設備が不十分であったため,避難者に災害状況や災害対策本部の動きが十分には伝わらず,避難住民は不安を感じていたようであり,迅速に改善すべき点が明らかになりました。このことを受け,避難所となる学校体育館等に情報提供設備の充実を図ることとしました。関係機関が正確な情報を共有し,災害の状況や避難に関する情報を,市民へ早く正確に漏れなく伝達することは,市民の生命財産を守るだけでなく,不安を解消するためにも非常に重要であると感じています。

○今後の課題
 近年,災害を防ぐ「防災」という概念は,災害を減らすという「減災」へとシフトしています。必ず起こる自然災害に対して,人的物的な被害を最小限に止めるということです。河岸段丘や山に接する地域が多い地形であり,土砂災害が発生するかもしれない地点が多いのは否めません。
 先にも記載したように,土石流が中央自動車道という構造物に止められ,災害の規模を抑制したように,必要な箇所を見極め,急峻な沢に砂防ダムや砂防堰堤を施すなど,減災の対策は必要不可欠であると考えています。
 こうしたハード面とともに,自分たちの住んでいるところにどのような災害が発生する恐れがあるのかを理解していただく必要があります。また,地域での活動が重要であり,自助・共助を充実させることが,災害による被害を最小限にするいわゆる減災につながると考えています。
 今回の豪雨災害の際にも,西春近の沢渡区柳沢地区や諏訪形区においては,自主的なパトロールや応急的な対応など,地域の自主的な防災体制が機能したことによって人的な被害を防ぐことができたと思います。こうした経験をもとに,自主防災組織をさらに活動できる組織にすることが必要だと感じています。
 現在,市内では自主防災組織の充実に向けた取り組みが各地で行われています。こうした取り組みを市内の自主防災組織で共有し,組織の充実を図っていくことが重要だと感じています。