平成18年7月豪雨の教訓を生かして

小口利幸(Toshiyuki Oguchi 長野県塩尻市長)

「砂防と治水179号」(2007年10月発行)より

はじめに
 塩尻市は,松本盆地の南端,長野県のほぼ中央に位置し,北アルプス,鉢盛連峰,東山・高ボッチ山,さらには中央アルプスの山並みを背景に田園風景が広がる,清らかな水と緑に囲まれた歴史あるふるさとです。市内には信濃川水系の奈良井川と田川,天竜川水系の小野川が流れ,塩尻峠と善知鳥峠,鳥居峠は太平洋と日本海への分水嶺となっています。
 加えて,本市は,太平洋側と日本海側の交通が交差する交通の要衝であり,鉄道においては,JR 中央東線,中央西線及び篠ノ井線の分岐点であり,主要幹線道路は,市内に2つのインターチェンジを有する長野自動車道のほか,一般国道19号,20号及び153号が通過し,信州まつもと空港も控えた交通環境の良好さから,人,物,情報の結節点としての発展が期待されています。
 産業面を見ると,農業は都市近郊型の利を生かして,野菜と果樹の生産団地が形成され,レタスを中心に豊富な種類の野菜が栽培されています。
 また,果樹栽培も盛んであり,特産のブドウを原料とするワインの醸造は,世界のワイン地図でもその名を知られ,長野県の原産地呼称管理制度に認定されたワインも多く,脚光を浴びています。
 さらに,大手メーカーや先端技術によるベンチャー企業が集積し,大学との密接な連携によって高度な技術開発が展開され,高度技術産業が集積する「信州版シリコンバレー」の実現に向けた取り組みを推進しています。
 具体的には,平成19年4月にオープンした塩尻インキュベーションプラザ(SIP)を拠点に,産学官連携による起業家育成や,SIP内に開講した信州大学工学系専門職大学院による人材育成を実施し,組み込みソフトウェアの分野において,世界に通じる技術者や地域の中核になる企業の育成による,地域の活性化や雇用の創出を図っています。
 また,木曽路の北の入り口に位置する楢川地区には,中山道の贄川宿と関所,国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された,木曽漆器の街木曽平沢及び往時の風情を伝える奈良井宿があり,年間30万人以上の観光客が訪れています。木曽五木をはじめとする豊かな森林資源に恵まれ発展してきた木曽漆器産業は,400年以上の伝統を誇り,平成10年開催の長野冬季オリンピックメダルの作製を手がけるなど,今なお,その伝統技術を継承した地場産業として栄えています。

平成18年7月豪雨の概況
 本市の平年の降雨量は,南部の楢川地区では,年間約2,000mm,それ以外の区域では年間約1,200mmであり,比較的乾燥した内陸気候です。
 平成18年7月豪雨の際には,梅雨前線の影響によって,7月15日の降り始めから26日までの雨量の累計が,木曽平沢で562mmを観測するに至りました。特に,17日から21日にかけての5日間の累積雨量は,南部の木曽平沢で453mm,市街地の塩尻消防署で287.5mmを記録しました。幸いに,人的な被害こそありませんでしたが,本市南部を中心に,住宅の全壊5棟をはじめ,家屋の浸水被害,鉄道,電気,道路,河川,農業施設,水道施設など,約53億円余に及ぶ過去最大の被害をこうむりました。

県道床尾大門線:県道床尾大門線が道路側溝の溢水により冠水しました 矢沢川:矢沢川の氾濫により市道が冠水し通行不能となりました マキヤ沢:国道19号がマキヤ沢からの土石流により埋没しました

災害対応の経過
 市では,7月16日夜から,担当事業部ごとに雨に対する警戒態勢をとりはじめ,17日早朝から,全職員を招集し,担当事業部による応急活動体制に入り,地元区,消防団,松本広域消防局,木曽広域消防本部,塩尻警察署等と連携した緊急対応,情報収集活動に入りました。
 午前8時43分,松本・木曽地域に大雨警報が発令された同じ頃,楢川地区贄川地籍で土砂崩れが発生し,関東から中京圏に向かう動脈である国道19号及び中央西線が不通となり,中京方面への交通機関が麻痺する事態になりました。
 そうした中,雨量の多い楢川地区では,支所長,区長を中心とした警戒態勢に入り,災害状況の把握,住民の安全確保,被災箇所への対応に努めました。
 また,ほかの地区においても,支所に地区の情報を集約し,担当事業部による応急処置が施されていきました。
 日を改めた18日,一旦は勢いの衰えた雨は,再度勢いを増し,午後から夕方にかけて,激しい雨になりました。木曽平沢では,午後2時から午後7時までの間に92mmの雨量を観測し,奈良井区6世帯12人に避難勧告を出し,深夜には,贄川区大曲地区の3世帯5人が自主避難しました。この際には,警戒出動をした地元消防団員による避難誘導が効果的であったと聞いております。この後,この大曲地区は,地区内を流れる贄川沢に発生した土石流により住宅4棟が埋没,全壊してしまいましたが,いち早い避難により人的被害を免れることができました。こうした中,交通機関への影響も大きく,楢川地区平沢地籍大崩沢に発生した土石流は,並走するJR 中央西線と国道19号を覆い尽くしました。
 19日未明,市は助役を本部長とする塩尻市大雨警戒本部に体制を組み替え,特に雨量の多い地区への対応を強化しました。
 しかし,依然降り続く豪雨は,山林の保水力を超えたため,各地で土石流の発生,河川の急激な増水等による災害が発生しました。
 楢川地区では,池の沢からの土石流が避難場所となっていた楢川公民館奈良井分館を襲い,分館建物と住宅1棟が全壊し,溢れた水は奈良井宿場内を濁流となって流れ,多数の床上,床下浸水が発生し,住民の自主避難が開始されました。
 市内南部を源流とする一級河川奈良井川,小曾部川,矢沢川,前田川,小野川が増水し,護岸侵食,堤防破損が発生し,流域各所で床上・床下浸水をもたらし,橋梁の流失による集落の孤立も発生しました。
入花見:小曾部川の増水により護岸が流失し,市道が陥没しました

大沢橋:小曾部川の増水により橋梁が流され,付近住民が孤立寸前の状況になりました

奈良井分館:住民が避難していた楢川公民館奈良井分館に,裏手の池の沢からの土石流が流入し,分館は使用不能になりました

贄川沢:贄川沢に発生した大規模な土石流により大曲地区の住宅4軒が埋没しました
 山林,沢からの出水による土石流,土砂流出も大規模に発生し,がけ崩れや,林道の崩壊等がいたるところで見受けられ,北小野地区上田区では,大規模な土石流が危うく集落を直撃するところでした。
 災害の大きな地域の2小学校,2中学校,3保育所は休校,休園となり,避難場所として開放されました。
 主要幹線では,国道20号が,塩尻峠付近の地すべりによる土砂流出のため,片側交互通行となり,国道153号は,前田川の氾濫により冠水し,北小野地区大出区で不通となり,加えて善知鳥峠付近では沿道の山林からの土砂の押し出しや,沢水の流入が見られました。
 そして,同日午前9時10分には,市長を本部長に塩尻市災害対策本部を設置し,また,多くの住民の避難と災害が発生した楢川地区への対応として,収入役を本部長とする現地災害対策本部を設置し,人命の尊重を第一に,関係機関と連携して対策を講じました。特に避難場所には,延べ131人の職員を配置し,避難住民へのケアに当たりました。
 雨が小康を得た20日には,本格的な復旧工事と被害状況の把握に向けた対応が開始されましたが,翌21日未明にはまた降雨があり,土石流,地すべりの危険が生じたため,3地区延べ315世帯・878人に避難勧告を行いました。幸い,災害は発生せず,翌日には勧告の解除をすることができましたが,転ばぬ先の杖という言葉を思い出したところです。
 22日には楢川地区の自主避難体制が解除され,現地災害対策本部も合わせて解散となりました。
 交通機関については,JR及び国道をはじめとする主要幹線は,23日までには,応急処置が行われ,供用を再開することができました。関係者の皆様のご努力に深く感謝申し上げます。

災害復旧への取り組み
 災害後の状況把握をする中で,台風シーズンの前であったため,緊急対策として,大規模な土石流が発生した4箇所には恒久対策が完了するまで,下流住民の皆様の安全確保と円滑な避難が行えるよう,県により土石流センサーと警報装置の設置を行っていただきました。そのうち3箇所は,国庫補助砂防事業として,残り1箇所は県単独砂防事業として,現在,恒久対策工事が着々と行われております。
 また,関係の皆様のご努力により,公共土木等の災害復旧事業は,現在,ほぼ完了しております。加えて,山林からの土砂流出防止のための治山事業などの恒久対策の実施については,県に対して計画的に要望し,取り組んでいただいております。

災害を振り返って
 非常に広範囲で,未曾有の規模のこの災害に際して,災害警戒や水防活動,住民の避難誘導や被害拡大の防止,避難所の住民に対する支援などに献身的に取り組まれました関係者をはじめ,食料や義援金などの支援を寄せられた皆様,さらに応急対応に当たられた地域住民の皆様方,区役員,消防団,建設工事関係者,そしてボランティアの皆様の御支援・御協力に対し,心から感謝を申し上げます。
 このたびの災害対応について,私なりに検証してみますと,まず,地域情報の日ごろからの共有と,住民のコミュニティーがいかに大切であるかを感じたところです。
 降水量や沢の水の色などの変化から危険を予知すること,どこに高齢者やひとり暮らしの人がいるかを常に把握し,避難に当たっては,そうした人にいち早く手を差し伸べたりすること,災害の発生が予知されてからの昼夜にわたる警戒態勢の保持,避難勧告の発令・周知,避難された方々への献身的な救援態勢など,行政や災害関係機関だけではとても対応し切れない部分を,住民の皆様方に支えていただきました。
 すべての復旧・復興には,まだまだ時間と費用を要するものと考えておりますが,このたびの災害への対応を踏まえ,住民の皆様が安全で,安心して暮らせる街を目指し,国及び県,また,地域の皆様と協働して風水害に対する防災対策に万全を期してまいります。