訓練との大きな違いを見せつけた能登半島地震

梶文秋(Fumiaki Kaji、石川県輪島市長)

「砂防と治水179号」(2007年10月発行)より

1.はじめに
 突然襲った震度6強の能登半島地震に際し,全国各地から心温まる御支援,御協力いただきましたことを,この誌面をお借りいたしまして心より御礼を申し上げます。
 輪島市は,昨年2月の合併以来約14カ月。日本海に突き出した能登半島の先端「行き止まりのまち」といった表現がいかにも似合う位置にあります。人口約3万4千人,面積が426km2,山地が約80%と,平地が極めて少ない市です。
 地元の人たちの間で物々交換から始まった朝市は,今ではすっかり輪島の名物。およそ360mに居並ぶ露店の数は約250軒。新鮮な魚介類はもちろん,地元の野菜も名物のひとつです。観光シーズンにはたくさんの人で賑わう盛況ぶりです。また,輪島塗が全国的に有名であり,漆器を英語で“japan”『ジャパン』と表記されるように,輪島塗は日本を代表する工芸品だと,業界とともに自負しています。平成15年7月7日より,能登全域の住民が長年待ち望んだ,能登空港が開港し,羽田・能登を約1時間で1日2往復定期便が運行されております。

2.能登半島地震
 平成19年3月25日,日曜日,天気も良く穏やかな朝でした。今日の仕事は午前11時に「輪島市文化賞」の表彰状授与式,まだ,それまでには十分時間がありました。
 突然に大地が揺れ,かすかな地鳴りから一気に突き上げる衝撃と南北の大きな揺れ。経験のない強さ,時間が長い,さらに強くなる,立っていることが出来ない状況でした。戸棚の上からテレビが飛んで,冷蔵庫の扉が開き中の物が流れるように落ちてきます。書架が倒れ本がバサバサ,壁に掛けた額が音を立てて踊っている,すごい揺れ,大変な事態が起きました。時間は午前9時42分,床に飛び散った物の合間を抜けるように歩き,防災服を身につけあわてて外に飛び出し,車に乗り込みました。前方の道路では倒れた家屋やブロック塀が散乱している状況が見えます。市役所に向かうため進路を変えたが,別の通りでも何棟もの倒壊家屋があり,そこをすり抜けて行くという凄惨な状況でありました。
 市役所に着くと秘書室のロッカーが倒れ,入口を塞いでいます。市長室は書架が倒れ書類が無茶苦茶になっています。総務課に行き,防災担当者をはじめ職員の参集を確認し,直ちに災害対策本部設置の指示を出しました。総務班・情報収集班・連絡調整班をはじめ幹部職員等を集め,非常用電源が配置された対策本部室に衛星電話をはじめ各種機材を設置し「直ちに災害対策本部を設置する,各要員は速やかに作業にかかれ」と指示しました。

 午前10時10分。長い闘いの始まりを宣言し,腹を決めました。
 震源地は,昨年2月に合併したばかりの輪島市門前町沖合。マグニチュード6.9,震度は6強。旧門前庁舎であった総合支所は現地対策本部としました。門前町では前年の10月に,大きな地震とそれに伴う津波が発生したとの想定で防災訓練を1,300名規模で行ったばかりでした。しかし,多数の倒壊家屋と高齢化率47.6%(旧門前町住民基本台帳ベース)は,訓練との大きな違いを見せつけ,対策の大変さを痛感いたしました。
 「直ちに,指定された避難場所の全てを開設し,職員の配置を行うとともに,倒壊家屋に閉じこめられた被災者がいないか確認せよ」「県を通じて自衛隊・緊急消防援助隊・日赤医療チームの出動を求めよ」。現在の防災備蓄品では,被害の大きさに対応できません。物資班は緊急に石川県やインターネットで全国に支援を求め,水道の断水5,500世帯,加えて停電,道路の陥没や隆起,下水道のマンホールは大きなところで85cmも隆起しています。ライフラインが寸断状態であることから,給水車の派遣や炊き出しの支援を要請しました。







3.今回の地震の特徴
 今回の能登半島地震の特徴を記載しますと,@火災が1件も発生しませんでした。これは地震発生時の曜日と時間が大きく関係しました。
A県都金沢からの大動脈である能登有料道路が8カ所も崩落。市道においても大規模崩壊により孤立した集落が発生しましたが,いずれも巻き添え者がいませんでした。通常はかなりの交通量ですが,25日は「朝市」が休みというのも幸いしたと考えられます。
B全壊住宅505戸,大規模半壊・半壊住宅1,070戸,一部損壊7,730戸。非住宅の全壊・半壊・一部損壊の合計が7,701戸。全体で約17,000棟の建物被害。この被害の多さの中で,倒壊家屋の下敷きになった者がいなかったのは奇跡といえます。
C学校が春休み,保育所も休みであり,施設の被害はありましたが,子供たちの施設内での巻き添え事故がなく,学校の入学式は遅れましたが,指定の避難所として利用できました。
D避難所は全体で27施設,2,221人が約1カ月の避難所生活を余儀なくされました。
E高齢化率が高いことと,多いところでは1カ所に300名におよぶ避難者があり,生活不活発病や感染症が心配され,市の保健師や日赤医療チームが懸命に対処をしました。
F通常の仮設トイレは高齢者が使いにくく,障害者用が必要となり緊急対応を講じました。
G合併から1年2カ月で人事異動と団塊世代の退職期(2年間で100名以上退職)が重なったため人事異動は凍結し,退職者には1カ月間災害対策指導員・支援員として留まってもらい緊急事態を脱しました。
H県議会・市議会の選挙時期と重複し,職員不足のため県職員や近隣自治体職員の応援を要請いたしました。一方では,合併のための在任特例により3月末で議員全員が任期切れのため失職して不在となり,執行部のみでの復旧対策となりました。
I水道が断水したため,市立病院の人工透析患者の透析が出来ず,約70名の方に金沢市の病院に2週間入院いただき治療を行いました。
J能登半島先端の各自治体をつなぐ国道249号は数カ所で大きなダメージを受けるとともに,県道・市道も被害を受け,自治体間の不通や孤立集落が発生し,改めて道路が生命線であることを認識させられました。
K250戸準備した仮設住宅は全て入居済みであり,その他にも親戚や血縁者,民間アパートに身を寄せている被害者もたくさんいました。
L開港4年目の「能登空港」は幸いにも3月25日の欠航のみであり,国関係の調査団を含む多くの方の現地入りに役割を果たしました。
 このように,地震発生の時期が年度末であったことや,合併からわずか1年2カ月という特殊性の中で数々の奇跡や異常事態に遭遇し,様々な対策を講じてまいりました。


4.涙がこぼれた
 
被災自治体として最も助けになったのは,中越地震(平成16年10月発生)で大きな被害を受けられた新潟県や同県各自治体の職員がいち早く,支援に駆けつけてくれたことでありました。涙がこぼれました。発災日以降,次々と起きるであろう様々な問題点を自らの経験を踏まえ,本市職員に的確に指導してくださいました。また,何日も…何人も…,本市に泊まっての直接指導であり「罹災証明」発行のための被害調査にも同行いただきました。その後「被災者生活再建支援法」の相談業務,被災者にとっても相談を受ける側にとっても悩ましく,指摘いただいたことが現実に多く発生しました。しかし,職員は狼狽せず冷静に対応し,一方では復興に向けた計画づくりにもあたることが出来,お陰様でと思う深い感謝の気持ちを,この誌面をお借りして申し上げます。
 大きな地震が発生すると,同じ場所では数十年は大きな地震は発生しないと思っていた矢先の7月16日,新潟県中越沖地震が発生しました。大きな応援をいただいた当市は,翌日の早朝に支援物資と職員11人を派遣し,延べ人数で120名を派遣させました。

支援に駆けつけた「チーム新潟」

5.おわりに
 防災担当大臣や衆議院災害対策特別委員会,国土交通大臣,安倍前総理等がいち早く調査や激励に現地入りされ,局地激甚として速やかな指定をいただき,加えて,商店街や漆器産業などを支援する中小企業復興支援基金の創設・震災復興支援基金の創設などの道が開かれました。ただし,復興は想像以上に大変なボリュームとなります。災害ゴミだけでも13年分,処理費用に60億円近くが必要となり,国の支援を受けたとしても必要な一般財源の捻出に苦労すると思われます。半島先端の自治体であり,財政力指数0.260の輪島市は平成19年6月補正予算の段階で災害関連費を計上し,財政調整基金は底を突くことになりました。財政状況は極めて厳しい状況でありますが,何とか歯を食いしばり復興を果たして行きたいと考えております。
 最後に,震災より生まれる物もありました。「人と人のつながり」新たな友情や協力し合う心が生まれたような気がいたします。また,この誌面では書ききれないほど多くの自治体の皆様やボランティアの方々に御支援をいただきましたことに対し幾重にも感謝申し上げ,現地からの報告とさせていただきます。