平成19年8月の突発的な集中豪雨から得たもの

松田和久(Kazuhisa Matsuda、島根県隠岐の島町長)

「砂防と治水182号」(2008年4月発行)より

はじめに
 隠岐の島町は,くにびき神話の残る島根半島の沖合北東約80kmの海上に位置し,隠岐諸島最大の島「島後(どうご)」全域で,この町の自然と歴史を踏まえて「まるい輪の中,心行き交う,やすらぎのまち」を合言葉に掲げ,平成16年10月1日に西郷町・都万村・五箇村・布施村の4町村が合併して誕生しました。
 島はほぼ円形に近い火山島で,隠岐の最高峰大満寺山(だいまんじさん)608mを中心に,500m級の山々が連なり,これに源を発する八尾川(やびがわ),重栖川(おもすがわ)流域に平地が開けており,周辺の海岸全域は,「大山隠岐国立公園」に指定され,雄大な海洋風景や急峻な山並み等が風光明媚な景観を醸し出しています。
 また,暖流と寒流が交差するため,オキシャクナゲやナゴランなど特有の花や希少植物が豊富で,学術的にも貴重な地域でもあります。このような自然環境下にもあってか,隠岐民謡にも「隠岐は絵の島,花の島」と唄われています。
 加えて,本町は,古代から日本海における交通の要衝でありました。縄文時代には,有数の良質な黒曜石が産出され貴重な産地であったことから,北陸地方や遠くは大陸までの海上交通が開かれたと言われています。
 奈良時代から平安初期にかけては,渤海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たし,中世以降は遠流の島と定められ多くの貴人,文化人が配流され彼らが伝えた都の文化は,時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されています。
 江戸時代に入ると,北前船の風待港として隆盛を極めることになります。
 こうした,隔絶された離島だからこそ残された自然があり,配流の地として,また北前船の寄港地として海を越えておいでになる人々を受け入れた離島ならではの歴史文化があります。
 わたしたちは,海と山がもたらした自然の恵みと,先人が築いてきた人々の営みを受け継いできました。
 幕末の混乱の中,松江藩郡代を追放し隠岐自治政権を樹立するため隠岐維新がありました。「自らのことは自らで守り」「自らの願いは自らで実現する」ため,島民自らによる自治機関を設立し,81日間の短期間でしたが独立した政権による自治
が行われました。
 本町は,離島という環境の下で育まれてきた独特の自然・文化等を確実に伝承しながらそれを活かし,隠岐に住む人,隠岐を離れた人,隠岐を訪れる人みんなにとって「住みよいまち」「帰りたいふるさと」「訪れたいまち」であるよう努め,新しい町づくりを目指しています。

平成19年8月豪雨の概要
 本町の気候は,日本海独特の海洋性気候で,年平均気温は14.0℃と日本海としては穏やかな気候となっています。これは対馬海流の影響によるもので,気温の年較差も22℃と小さくなっています。しかし,離島であるために風が強く,年平均風速は3.4m/s となっています。また,年間降水量は1,750.4mmです。
 平成19年8月豪雨の際には,山陰沖に停滞する前線に向かって,暖かく湿った空気が入り,大気の状態が非常に不安定になったため,隠岐地方では8月30日夜遅くから31日明け方にかけて猛烈な雨を観測しました。
 30日午後11時30分から31日午前2時30分までの間に,解析雨量では,西ノ島町付近,隠岐の島町付近で1時間120mm以上の大雨となりました。また,31日午前1時30分には,隠岐の島那久(島根県雨量観測所)で1時間131mm,同日午前2時には布施で131mmの県内で観測史上最高となる猛烈な雨を観測しました。
 幸いにも人的被害こそありませんでしたが,本町全域において,住宅の全壊1棟をはじめ,家屋の浸水被害,道路,河川,農業施設,上下水道施設など約70億円に及ぶ過去最大の被害となりました。


災害対応の経過
 町では,8月30日午後8時30分に隠岐に「大雨洪水警報」が発令されると同時に副町長を本部長とする「隠岐の島町警戒本部」を自動設置し,警戒本部要員が本庁本部および支所に参集し,警戒体制に入りました。
 翌31日午前1時前より雨足が強くなり,午前1時10分に隠岐の島町に土砂災害警戒情報が発表されたと同じ頃,「隠岐の島町災害対策本部」に移行し,体制を強化しました。
 その後も雨は激しさを増しましたが,午後2時すぎには急激に衰え,短期集中型の豪雨が,各地で河川の氾濫,がけ崩れ,土石流等を発生させ被害をもたらしました。
 午前1時24分には,体制強化のため,待機職員の参集を行いました。
 午前1時30分頃,有木地区では住宅裏にある有木小学校グラウンドの斜面が崩れ,土砂が流出し住宅が全壊しましたが,いち早く避難し人的被害を逃れることが出来ました。
 午前1時43分には,八尾川・銚子川・中村川流域に「避難勧告」を発令し,消防団に対し,警戒と避難誘導を指示して対応にあたりました。
 午前2時05分には,本町全域に「避難勧告」を発令し避難を呼びかけました。
 道路は,土砂や倒木,橋梁や道路の流失,道路の冠水等により各所で通行不能になり,一時全域において孤立する地域が多発する状況が発生しました。
 災害発生が深夜であったため,夜明けとともに,被災状況の概要調査を現地連絡員により実施し情報収集を実施しました。
 被害概要は,町全域において災害が発生しており,全壊1棟,半壊2棟,一部損壊8棟,床上浸水93棟,床下浸水196棟,道路の通行止め7箇所,7地区で断水という状況で,これを基に被災地域への応急対策を実施しました。
 まず,緊急を要する被災家屋の復旧を最優先し,流入土砂の撤去やたたみ等災害廃棄物の廃棄や消毒及び,し尿の汲み取り,生活用水の確保等について対応を実施しましたが,被災地区が点在しているため一日での対応が困難でした。
 特に,道路が寸断され孤立した大津久地区へは,船舶により飲料水の運搬を実施して,生活用水の確保に努めましたが,被災家屋への対応は出来ませんでした。
 翌9月1日には,全職員を動員し,前日に引き続き対応を実施し,孤立地区を除き被災家屋への対応はほぼ終了しました。
 9月2日には,各対策部での対策に切り替えて,それぞれにおいて被災状況の調査や応急対策を実施し,孤立地区を管轄する支所では,孤立地区の解消と生活基盤の回復に向け全力で当たりました。
 9月3日から4日にかけては,引き続き各対策部での対策と,孤立地区が解消されたので,本庁より支所へ職員を派遣して生活基盤の回復に向け対策を実施し,全ての地区において被災家屋への対応が完了しましたので,午後7時に「隠岐の島町警戒本部」に切り替えて,道路や河川等の仮復旧などの応急対策を実施することとしました。
 9月7日には概ね被害調査と応急対策が終了しましたので,午後4時30分に体制を解除しました。
 本町は離島というハンディにもかかわらず,島内の関係者及び住民の皆様のご努力によりまして,島の総力を上げ,島の力だけで迅速に応急対策が実施できたことをたいへん誇りに感じています。
大津久川土石流被害状況 油井川土石流による被害状況

災害復旧への取り組み
 今回の災害の特徴として,短時間に想像を超える雨が降ったことにより,町内各所で土石流が発生しました。下流に民家および公的施設のある9箇所について,緊急対策として早期に避難判断ができるよう土石流センサーと警報装置の設置を行っていただきました。その9箇所すべてについて,災害関連緊急砂防事業の採択を受け,県において復旧作業が着々と進められています。
 既設の砂防施設についても調査を行っていただき,危険性のある堤体の復旧,堆積土の撤去等に取り組んでいただいています。
 また,公共土木施設の災害復旧についても2カ月という迅速な災害査定を実施していただき,順次復旧を行っています。
 なお,この災害におきまして,国土交通省および島根県をはじめ関係機関の方々には災害直後の緊急対応,応急工事から災害査定,事業採択に至るまで多大なるご尽力をいただき大変お世話になりました。心より厚くお礼申し上げます。

災害を振り返って
 本町全域において大きな被害が発生したこの災害に対しまして,災害への警戒や住民の避難誘導,被害拡大防止,被災住民に対する支援などに献身的に取り組まれた関係者や,食料や義援金などの支援を寄せられた方々をはじめ,応急対策に尽力いただきました地域住民の皆様,建設工事関係者及びボランティアの皆様のご支援,ご協力に対しまして,心から感謝を申し上げます。
 今回の災害を振り返ってみますと,2時間という短時間に予想をはるかに超える豪雨に見舞われ,対応するいとまがない状況で発生した災害となりました。
 特に,被災直後の地域住民の皆様の迅速な避難活動によりまして,奇跡的に人的被害を免れました。改めまして,住民自らの「自助」と地域での「共助」の大切さを痛感し,日頃からの地域における絆に対しまして,力強く感じたところでございます。
 また,応急対策に全職員の力を集結し,地域住民と一体となった活動は,住民との深い絆を築く結果となりました。
 今後の本格的な災害の復旧・復興には,時間と費用を要するものと考えておりますが,今回の被災経験を踏まえ,合併時に掲げています「まるい輪の中,心行き交う,やすらぎのまち」を目指し,安全で安心して暮らせる災害に強いまちづくりを国及び県,地域住民の皆様と「協働」して実践してまいりますので,今後ともよろしくお願いいたします。