2000年噴火と砂防・治山

平野祐康(Sukeyasu Hirano、東京都三宅島三宅村長)

「砂防と治水184号」(2008年8月発行)より

○はじめに
 三宅島は,東京から南南西へ約180kmに位置し,伊豆半島からは約80km離れています。周囲を流れる黒潮の影響により,気候は温暖多雨。年平均気温は17.5℃と暖かく,最寒月は2月の9.4℃,最暖日は8月で25.8℃です。降水量は年間3,000ミリを超え,年間を通じて風が強く風速10m/s 以上の風が吹く日は約230日にもなります。
 4〜9月にかけては南西風が多く10〜3月にかけては強い西風が吹きます。植生は,2000年噴火の影響により標高の高いところでは裸地化していますが,火山ガスの影響を受けていない地域ではオオバヤシャブシや,オオシマザクラ,オオバエゴの木などを見ることができます。その他タブノキ林は限られており,大変貴重な自然の財産となっています。
 また,これまでに約250種の野鳥が観測され,野鳥の生息密度が高いことでも知られています。野鳥は島という隔離された環境の中で生態や習性が変わっているものがあり,例えばオーストンヤマガラは,本州のヤマガラよりも,産卵数が少なく,巣立ちヒナの餌ねだりの期間が長いことが知られています。
 海では,黒潮の恩恵によって南方系の海水魚が数多く見られ,サンゴの種類も約90種と豊富です。火山地形が随所に見られ,植物の様子を理解する素材にも恵まれています。
 このように回復をみせる三宅島の自然の力,強さについては後で述べるとして,先ず2000年噴火の様子と現状を皆様にご報告させていただきます。

○2000年噴火の様子と現状
 三宅島は,海底部分まで含めると直径25km,高さ1,200km程の火山島で,山頂から海岸線にかけては,割れ目噴火の火山列が数多くあります。島には2つのカルデラがあり,約2,500年前に山頂部分で発生した噴火により八丁平カルデラができたと考えられています。
 しかし,その後の記録のある14回の噴火はほとんどが山腹での割れ目噴火です。過去100年では21〜22年間隔で割れ目噴火を繰り返してきました。
 平成12年の噴火災害は,全島避難から避難指示解除まで4年5カ月を要し,帰島後も復興・復旧に向けた火山ガスとの共生と戦いの日々が続いています。この事例のない長期災害は,その時の状況,住人の意識の変化などから大きく次のように時期を分けることができます。
@災害発生期(平成12年6月〜平成12年8月)
 この時期は,全島避難決定まで島内が混乱していた期間である。
A長期避難開始時期(平成12年9月〜平成13年8月)
 全島避難により島民は全国の公営住宅をはじめとして島外の避難先で生活を開始した。当初,多くの島民がすぐに島に戻れると思っており,早期帰島に期待をかけながら,一方では避難生活を軌道に乗せなければならないという混沌とした時期を過ごした。しかし,噴火の降灰等による泥流により,生活道路は大きく寸断され,家屋の老朽化も進んだ時期でもある。
B避難生活安定期(平成13年9月〜平成15年3月)
 全島避難から1年を経て,念願であった島民,子供たちの一時帰島が実現した。島民は,帰島の見通しがないという不安を抱えながらも一時帰島により島の自宅から荷物を運び出したり,住宅の保全を始めることができるようになった。
C滞在帰島時期(平成15年4月〜平成16年6月)
 クリーンハウスの完成によって滞在型の帰島が実現し,この時期,国や都,村では「火山ガス安全対策検討委員会」の報告を踏まえ帰島に向けたプログラムを策定した。
D帰島準備期(平成16年7月〜平成17年1月)
 平成16年7月20日,村は帰島に向けた方針を発表し,9月には「帰島計画」を公表。国,都,村による帰島の準備は一挙に加速した。
E復興始動期(平成17年2月〜)
 平成17年2月1日,ついに島民が待ちに待った避難指示が4年5カ月ぶりに解除され,避難していた島民の約7割が帰島し,農業,水産,観光等の復旧が加速し新しいふるさと三宅島の本格的な復興が今も続いている。

○結びに
 今日の三宅島の被害は時間経過に伴って変化し,一方では復旧対策等が実施されています。そのため,いつの時点で何をもって被害とするかを,一概に定めにくい状況です。今回の災害についても公式な被害の総数,総額はまとめられておらず,これが長期化した火山災害の特徴とも思われます。
 住民に関する被害認定調査(調査申請のあった自宅のみ実施)の結果は,調査された324件の55%にあたる180件が全壊,大規模半壊を認定されました。
 私は5月の連休を利用して,火山災害の伊豆諸島三宅島と水害の米ルイジアナ州・ニューオーリンズの災害支援者交流に参加し,被災地で災害について学んできました。一言で申し述べれば,世界のリーダーでもある米国が被災者に対する支援の全てをボランティアにまかせていることが納得できませんでした。災害の種類,規模に違いがあっても,自助,共助,公助は世界共通の言葉ではないのか。「ふるさと三宅島」が日本国であってよかった,そしてまた被災者である島民も日本人でよかったと痛切に思い起こしました。
 全国の皆様に支えられ,我慢した避難時期を乗り越え,国と都関係者,多くの方々の支えによって,帰島できたことを重ねてお礼を申し上げたい。
 現在,島内では「防災しまづくり」として島民の生命と財産を守るための砂防えん堤51基が完成。新たに島内3カ所で工事が進んでおり,さらには治山ダム161基の整備が完了しています。
 自然との共生の中で,島民が安心して安全な生活を送れることに感謝しています。