平成22年7月16日「庄原ゲリラ豪雨」を振り返って

滝口季彦(Suehiko Takiguchi,広島県庄原市長)

「砂防と治水204号」(2011年12月発行)より

1.庄原市の概要
 庄原市は,平成17年3月31日,近隣の1市6町が新設合併し誕生しました。広島県の北東部,中国地方のほぼ中央に位置し,東は岡山県,北は島根県・鳥取県に隣接する“県境のまち”です。東西約53km,南北約42kmのおおむね四角形で,広さは1,246.6km2と広島県の約14%を占め,全国自治体の中で13番目,近畿以西では最大の面積(平成23年10月1日現在)を擁しています。
 北部の県境周辺部は,県内有数を誇る1,200m級の高峰と森林に囲まれ,この地の沢を源流とした河川が二つの水系に分岐し,日本海,瀬戸内海に注いでいます。美しく連なる山々が四季折々に彩を変える「比婆道後帝釈国定公園」や,中国地方唯一の国営公園である「国営備北丘陵公園」などを有し,中山間地域ならではの,心なごむ里山景観を有しています。
 また,太古からの豊かな自然に抱かれながら,人々の生活に根付いた文化を今に伝える,国指定重要無形民俗文化財の「比婆荒神神楽」や「塩原の大山供養田植」など,悠久の歴史と伝統・文化の薫る田園都市です。



位置図

2.平成22年7月16日豪雨の状況
 のどかな山里の景色が一変したのは,梅雨も末期,7月16日金曜日の夕刻でした。梅雨前線の影響で7月11日から前日まで降り続いた雨は260mmに上り,土壌は深くまで多量の水分を含み,2日前には市内数箇所で大規模な土砂崩れも発生していました。当日の市内は,前線も小康状態で雨は上がっていましたが,15時過ぎから再び雨が降り始め,被災地となった地域では直径2cm位の雹も降りました。雹はやがて大粒の激しい雨へと変わり,16時39分,庄原市に大雨警報が発令されました。
 その日,私は広島市へ出張中でしたが,その帰路の車中,庄原警察署からの電話を受け,耳を疑いました。「市内で家が流されている」。確認のため,すぐに市役所に電話を入れるも,その情報はまだ入っておらず,早急に状況を確認するよう指示をし,帰路を急ぎました。電話を受けた時,雨は少ししか降っていませんでしたが,庄原インターチェンジを降りた頃から,激しい雨に見舞われました。帰庁後,「情報収集と警戒にあたるため,地元消防団が出動している」旨報告を受けました。市役所周辺の降雨は,確実にその激しさを増しつつありましたが,現に起こっている,そして,さらにこれから起こることとなる出来事は,予想すべくもありませんでした。
 17時30分,市役所から8kmほど北東に離れた川西町の住民から,「付近の河川が氾濫し,床上まで浸水している。車も流されている」との通報が市役所にありました。この一本の電話が市民からの被害の第一報で,未曾有の災害への対応の始まりでした。
 17時50分,庁内に災害対策本部を設置。全職員を参集させ,情報収集と対応にあたりました。入ってくる情報は,家屋の浸水のみならず,「車が何台も流されている」「工事中の橋脚の上で,作業員が孤立している」「土石流で家屋が流されている」など,初めて経験する事象ばかりでした。
 この間の雨量は,西城町大戸地区で15時から19時まで4時間の累積雨量174mm,60分最大91mm,そして17時30分前後10分間の最大雨量は44mmと,本市観測史上いずれも最大値を記録しました。しかも降雨は,市役所から北東方向に位置する庄原市のほぼ中央部,約4km四方に限られ,その時の様子は,「山沿いの空を見ると,低く垂れ込めた真っ黒い雲から真下に向かって落ちる水柱が見えた」というほどの局所的な豪雨で,その被害は東西3km,南北2kmの極めて狭い範囲に集中しました。山腹はいたる所で崩落,谷川を土石流が一気に駆け下り,山里を瞬く間に覆い尽くしました。前触れもなく,平穏な人々の営みを急襲した豪雨,まさしく「ゲリラ豪雨」でした。

7月16日の降雨の状況 豪雨のあった範囲

上空から見た被災地(篠堂地区) 家屋を襲った土石流

3.被災者の救出活動
 18時10分,広島地方気象台より土砂災害警戒情報発令。18時23分と30分,被害の拡大が予想される市内2地域121世帯312人に相次いで避難勧告を発令するとともに,市内5箇所に避難所を開設。食料や毛布,そして保健師などを配置し,住民の安全確保に努めました(避難所へは7月24日に全箇所閉鎖となるまでの間,最大時168人が避難しました)。同時に広島県警本部へ協力要請。さらに,18時38分には広島県知事を通じて陸上自衛隊へ災害支援派遣要請を行いました。過去幾度となく豪雨災害を経験している本市にあっても,県警や自衛隊に協力要請を行うのは初めてのことで,それほど事態は逼迫し,一刻の猶予も許されない緊張した状況でした。
 21時に国土交通省中国地方整備局から災害対策現地情報連絡員(リエゾン)が到着,18日に到着の緊急災害対策派遣隊(TEC-FORCE)と併せて,正確な被災状況の把握と的確な技術的指導をいただきました。そして23時20分に陸上自衛隊,翌17日の深夜1時には広島県警機動隊が,さらに5時30分には広島県内広域消防相互応援協定に基づく応援隊が相次ぎ到着。孤立者の救出活動が本格的に開始されました。
 一時期335人が孤立状態となりましたが,救助機関や地元消防団員等の誘導により,多くは朝までに無事,避難所等に避難することができました。また,夜明けと共に始まったヘリコプター(自衛隊,警察,消防)等による救出により,救助を待っていた孤立者43人の安全が確保されることとなりました。
 しかしながら,安否の確認が取れない高齢の女性が1名あり,災害対策本部はこの行方不明者の捜索に全力を挙げることとなりました。この女性は一人暮らしで,自宅は裏山からの土石流に跡形もなく流され,基礎のあった場所がかろうじて判別できる程度でした。
 先日の豪雨が嘘のように真夏の太陽が照りつける中,自衛隊,警察,常備消防,そして消防団等を主体とし連日,捜索を行いました。この間,延べ従事者1,863人,災害救助犬21頭,地元建設業界から重機24台,等の協力を得て懸命に捜索にあたりましたが発見には至らず,捜索開始から7日目の7月23日捜索活動を終結。その6日後の7月29日,自宅のあった場所から約7km下流の河岸で,願い空しく遺体となって発見されました。災害発生から13日後のことでした。夕闇迫る中,外の気配に怯えつつ一人身を屈め,そして一瞬のうちに濁流にのまれた故人を思うと,無念さに今なお心が痛み,心からご冥福を祈らずにいられません。

ヘリコプターによる孤立者救出 自衛隊による不明者捜索

4.被害の全貌
 発生から数日経過すると,被害の全貌が次第に明らかになってきました。その爪跡は,想像以上に深く,土石流災害37箇所,がけ崩れ災害6箇所が発生し,1名の尊い人命とともに,住民が先祖代々受け継ぎ守ってきた農地や家屋などの財産を,一瞬のうちに流し去ってしまいました。
 山肌には,500箇所以上の土砂崩落の跡が幾筋も虎の背模様のように残り,根こそぎ流出した木々や土砂は道路や河川を塞ぎ,田畑のいたるところに堆積。復旧を阻むとともに,その後の降雨の状況によっては被害の拡大も懸念されました。
(1)人的被害
 死者1名,重傷者1名
(2)家屋被害の状況

(3)被害額(事業費)集計表〔概算〕


5.復旧・復興に向けて
 復旧作業の障害となっていた幹線道路を覆う多量の土砂や流木は,地元建設業者等の協力により,災害発生の3日後には工事車両が通行できるまでに撤去されました。そして,5日後からは,国,県,砂防ボランティアなどにより,二次災害防止のための斜面や渓流の危険度調査が,延べ94箇所にわたり実施されました。その調査結果に基づき,危険度判定Aの箇所を中心に,雨量計の増設とともに7箇所のワイヤーセンサー(土砂移動監視装置)が新設され,それらの観測において異常を感知した場合は,関係職員の携帯電話にメール配信されるシステムが整備されました。
 災害対策本部として現場の応急対策にあたっていた本部は,8月18日「災害復旧対策本部」に改組し,復旧に向けた取り組みを本格化させました。県からは,再度災害の防止と,住み慣れた地からの移転を条件に,災害関連緊急砂防事業として,被災地中央を流れる本川を砂防指定地とし,周囲の渓谷や山腹からの土砂流出を防止するための治山事業による堰堤15箇所(23基),砂防事業による堰堤11箇所(20基)建設を柱とする復旧計画が示されました。さらに,公共土木災害,農地・農業用施設災害については,国により局地激甚災害の指定基準が緩和されたことに伴い,激甚災害の指定を受けることとなりました。早期の安全確保と住民の生活再建が望まれるなか,国・県等には事業計画の提示から採択,そして事業着手と,速やかな対応をしていただきました。ご尽力いただいた関係各位に深く感謝を申し上げます。
 被災地では,被害の甚大さに現在地での生活再建を諦めざるを得なくなった集落や,1年以上経過した今なお,仮住まいを余儀なくされている世帯がまだ多くあります。復旧・復興に向けた取り組みが進み,清流に蛍飛び交う山里の風景,住民の心安らぐ平穏な日々が,一日も早く戻ることを願ってやみません。

流木撤去の様子 完成した砂防堰堤

6.防災体制の見直し
 市ではこの度の被災を受け,庁内防災体制の見直しを行いました。本年度より従来の総務課危機管理係を危機管理課に格上げし,災害や防災への対応機能を強化しました。また,防災計画を見直すとともに,新たに「避難勧告等の判断伝達マニュアル」を策定し,雨量等の客観的な数値情報に基づく避難勧告等の発令基準や,住民への情報周知までの手順を定めました。併せて,民間の気象情報会社と委託契約を締結し,より詳細な気象予報情報を把握する環境を整えました。
 しかしながら,まだ防災無線が整備されていない地域もあるなど,住民の一人ひとりにまで,確実に情報を届けるための媒体が十分に確保されているとはいえず,今後計画的に整備を進めていくこととしています。

7.おわりに
 私は,この災害対応に当たり,市民の生命と安全を預かる行政の長として,有事の際,迅速かつ的確に判断を下すことの責任の重さ,重要性を深く認識いたしました。と同時に,地域において住民がお互いを助け,支え合うことの大切さについても改めて実感しました。住民の安全確保には,技術と装備を有する公的救助機関は大きな役割を担いましたが,一方では,隣近所で声を掛け合い励ましあって難を逃れたり,隣家の高齢の人を背負って安全な場所へ避難させたりという助け合いの精神,いわゆる共助の意識が被害を抑えることにつながった事例もありました。
 思いやりの心で結ぶ地域の絆は,人と人を繋ぐとともに,人の命をも繋ぎます。
 災害時の対応や復旧にあたっては,公的機関のみならず地元自治振興区(自治会)や消防団,さらには市内外からの災害ボランティアなど多くの人々の支援をいただきました。また,心のこもった支援物資や義援金など,励ましの言葉とともに全国より多数お寄せいただきました。そうした人々の温かさに幾度となく触れるたび,勇気づけられ,そして復旧・復興に向けての決意を新たに致しました。感謝するとともに,誌面をお借りし,改めてお礼を申し上げます。
 庄原市は将来像として「“げんき”と“やすらぎ”のさとやま文化都市」を掲げ,まちづくりを進めています。人々の元気と安らぎを包み,文化を守り育むのは,安全で安心できる郷土です。この度の災害の教訓を活かし,再び尊い人命を失うことのないよう,地域防災に対する意識の拡大と災害に対する危機管理意識を高め,住みよいまちづくりを進めて参りたいと思っております。