砂防会館の歴史


砂防会館(本館)の建築




 砂防会館は全国治水砂防協会(以下 砂防協会)が建設し管理・運営しています。 砂防協会の沿革にも記載していますが昭和10年(1935)年に砂防協会(任意団体)は設立されました。 設立者の赤木正雄は「協会の永続発展のためには、維持の財源を会費だけに依存するのは危険であり、協会の独立自存のため」、また「砂防協会の総会などの行事が自前ででき、しかも会員の便宜のため」 独自の会館が必要であると考え、昭和14年(1939)初代会長の末次信正に了解を得て、その準備に取り掛かっています。
 
 協会は設立以来赤坂溜池の三会堂に事務局を置いていましたが、戦災によってその場所を追われ転々とせざるを得ませんでした。 その後昭和25年(1950)11月に開かれた臨時総会において、会費を拠出し、千代田区永田町に土地を購入する事を決めました。(この土地は、今の参議院議員会館の一部に当たります。) そして、同26年(1953)2月の総会で、砂防会館建設を決議し、同28年(1953)6月には、東京都に建築許可願を提出しました。 
ところが、参議院から砂防会館建設予定地を国会で使用したいので譲渡して欲しいとの要望があり、更にはこの土地を収用し得る法案まで準備されたのを受け、砂防協会は土地を国会に譲渡し、換地を申し入れ、現在の千代田区平河町に土地を所有することとなりました。(元の所有者は、独逸東亜細亜協会で、現在のドイツ東洋文化研究協会です。) 

 建築条件が著しく変わったため、設計を全面的にやり直し、あらためて入居者を募集する等、大変苦労しましたが、会員より早期会館建築の強い要望があり、建築資金を、国の補助金や民間からの寄付金に頼らず、すべて会員の浄財により、昭和30年12月に会館建設の起工式を挙行し、同32年8月28日に竣工式を挙行するにいたりました。

 
建築当初の砂防会館  

 

建築当時は当会館周辺には大きな建物は少なく、丘の頂点に位置した当会館からは皇居や国会議事堂、さらに富士山や箱根秩父の連山、東京湾まで見渡せたといわれております。

 
また地下2階、地上5階建ての会館内には800人収容の砂防会館ホールも建築され、当協会の総会、促進大会、講習会をはじめ公益法人団体の使用にとどまらず、講演、演劇、音楽舞踊等にも多く使用され、多くの人々が観劇鑑賞に当ホールへ足を運ばれました。
 
 その他、国会議員をはじめ有識者が砂防工事の理解を深めるために、また協会会員が上京の際などに当会館へ立寄れるよう、約60坪の談話室も設けられました。
 また当初は会員相互の融和を図り、また在京の知人との懇談に便ずるために優雅な6つの和室の他、食堂、浴場を含む宿泊施設も設けられておりました。

別館、シェーンバッハ・サボーの建築
シェーンバッハ・サボー 利根会議室

 その後、砂防協会の活動が多様化活発化するにともない、砂防会館の有効活用を図るため、別館の建設を計画し、総会の審議を経て、別館Aが昭和57年に着工、59年3月に竣工しました。(地下1階、地上7階)

また平成3年には砂防会館ホールの老朽化にともない、それに変わる最大1200人を収容する多目的会議室「シェーンバッハ・サボー」を含む別館Bの増築(地下1階、地上6階)に着工、平成5年3月に竣工いたしたしました。 

砂防会館の現在

 現在砂防会館は本館、別館Aおよび別館B(含 シェーンバッハ・サボー)の3棟の建物で構成されております。
本館は、当協会の事務局、会議室、会員談話室、砂防図書館、赤木正雄記念館等に使用されている部分を除き、貸事務室として運営していましたが、本館建て替えに伴い、当協会の事務局、会議室、砂防図書館、赤木正雄記念館は別館Aに移転しました。

 別館Aは、当協会の事務局、会議室、砂防図書館、赤木正雄記念館、別館Bへの通路、エントランス、管理室を除き貸事務室として運営しています。
 別館B(含 シェーンバッハ・サボー)は、役員室、会議室として使用している部分を除き貸事務室として運営しています。
シェーンバッハ・サボーは現在当協会行事の総会、促進大会、講習会などをはじめ、国際会議、各種セミナー、講演会などで一般に幅広く利用されております。

 
シェーンバッハ・サボー1階 ロビー・本館1階 会員談話室 砂防会館(左 本館・右 別館)
 
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