「砂防の神様、砂防の父」 赤木正雄 |
1.生い立ち 2.新渡戸稲造校長の訓示 3.内務省入省 4.オーストリア留学 5.砂防技術の普及 |
6.砂防工事全体計画の策定 7.時局匡救事業と全国治水砂防協会の設立 8.砂防事業発展を期して |
9.内務省退官と砂防会館の建設 10.国会議員 11.天皇陛下へのご進講 12.ローダーミルクとSABO |
13.「砂防一路」の生涯 |
・年譜 ・動画『赤木正雄~砂防への熱きおもい~』 |
1.生い立ち 赤木は、明治20年(1887)3月24日、兵庫県城崎郡中筋村引野(現豊岡市引野)で生まれた。父は甚太夫、母はたみ、4女2男の末子である。 赤木家の祖先は山名宗全の分れで、但馬の上の郷に城を持った赤木丹後守の子が赤木家の初代となる。父甚太夫は11代で、維新後明治3年(1870)但馬久美浜縣において引野村の荘官を命ぜられている。明治39年(1906)秋の大洪水では引野分後田坪の堤防が大決潰した。甚太夫は私財13,000円余を投じて修理をなす等、従来からの数々の治水の功績に対して賞勲局より銀杯を下賜されている。 赤木家の12代は兄の赤木一雄が継いだ。彼は早稲田大学政治経済学科に学び、後に中筋村の村長として故郷のために尽くし、赤木が欧州留学の時には渡航資金の援助を行い送り出している。赤木は兵庫県立豊岡中学に学び、第一高等学校、東京帝国大学農科大学林学科に進み、卒業後内務省に採用された。 |
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2.新渡戸稲造校長の訓示 赤木が一生を治水・砂防に捧げようと決めたきっかけは明治43年(1910)9月13日の第一高等学校新渡戸稲造校長の訓示を聞いたことによる。 明治43年(1910)の災害は関東地方を中心に1府15県にわたる大きな災害で、政府は臨時治水調査会を内閣に設置するとともに、治水計画に関することを議論し「河川改修計画ニ関スル件」「砂防計画ニ関スル件」を決議の上、「第1次治水計画」が策定された。 新渡戸稲造は、全校生徒を前に、我が国が度々大災害を繰り返している状態を説き、かかる災害を防ぐための技術者の出ることを待望して、外国の技術者の例を挙げている。そして治水のことは決して華やかな仕事ではない、しかし、人生表に立つばかりが最善ではない、ここに集まった諸君の内一人でも治水に命を捧げ、災害の防止に志すものはないかという言葉に感銘した赤木は、この瞬間から一生を捧げて治水・砂防の道を進む決心をした。赤木も、夏休みを故郷の豊岡で過ごした後、帰京途次にこの災害にあい、東海道線が御殿場で不通になり、雨の中を歩いてようやく山北駅にたどり着いて帰京したという経験をしている。この経験が砂防を志す決心を後押しした。 |
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3.内務省入省 赤木は、大正3年(1914)、東京帝国大学農科大学林学科を卒業し、新渡戸稲造の訓示を聞いて決断した「治水・砂防」を生涯の道とするため、内務省の沖野忠雄技監に採用願いの面接試験を受ける。沖野技監は、「内務省には135人の技師がいる。併し日本の河川は水源を治めない限り治まらないが、土木卒業の学士は皆山に入ることを嫌うので、誰か一人砂防専門の技師を採用しようと考えている。山に木を植えることを教わったか」と問われた赤木は「本多静六博士から3年教わりました」と答えると、沖野技監は「君を先ず採用することにする」と採用が決定された。 こうして、赤木は内務省最初のただ一人の林学士として採用され、大阪土木出張所管内にある滋賀県の田上山山腹工の現場に従事した。山に木を植える仕事を1年余り経験した後、大正4年(1915)に、直轄砂防事業が始まる吉野川で砂防工事に携わることになった。 吉野川の左支川の土砂の流出の激しい曽江谷川で砂防工事を担当するが、砂防技術の見地からの施設の構造や配置などについての赤木の意見が入れられず、完成した砂防堰堤や床固工が出水のたび破損することが続いた。自責の念にかられた赤木は現地視察に来た原田貞介技監に退職の願いを出すが、逆に励まされ、心機一転砂防技術の最も進んだオーストリアに留学して水理学を学ぼうと決意した。 吉野川で5年過ごした後、大正9年(1920)に大阪土木出張所に移り、淀川管内の砂防工事の監督をして、大正12年(1923)春に、内務省を休職、自費でヨーロッパに旅立つ。 |
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4.オーストリア留学 赤木は、オーストリアのウィーン農科大学に留学し、ヴィンター教授に師事し、曽江谷川を材料にした水理実験を行った。そしてオーストリアはもちろん、スイス・イタリアなどヨーロッパ諸国の砂防現場の視察を行い、欧州の砂防事情を「水利と土木」に寄稿している。 |
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5.砂防技術の普及 赤木は大正14年(1925)4月10日、オーストリア留学から帰国し内務省土木局に復帰するや直ちに全国の砂防事業を統括する立場になる。 大正15年(1926)5月には、新潟土木出張所兼土木局勤務となり、国直轄施行が認められ設置されたばかりの常願寺川での直轄砂防事業を行う立山砂防工事事務所の初代所長を兼務し、白岩砂防堰堤(重要文化財)等の建設を指揮した。 赤木は、オーストリア各地で見聞した砂防現場から渓流砂防の考え方を日本に取り入れ、我国の山腹工中心から、渓流砂防も併せ行う方向に大きく舵を切った。しかし、赤木は山腹工を等閑視したわけではなく、むしろ、山腹工事を軽視して渓流工事を重視しすぎる傾向に対して、流域全体での土砂処理計画の観点から、山腹工事がもっと重要視されるようにとの警鐘も鳴らしている。 また、砂防工法がいかなるものか、統一した分類、考え方について昭和11年(1936)から3年にわたり河川協会発行の「水利と土木」に「砂防工事」を24回連載した。これを基に、内務省内で協議し局議を経て、昭和13年(1938)3月に、冊子「砂防工事」が内務省土木局で発行され、砂防工事に関する公式の規範とし、内務省や府県に配布した。 一方、大正15年(1926)、京都帝国大学に農学部が設置されるや、昭和20年(1945)までの長きにわたって赤木は農林工学科で講師として砂防工学の特別講義を行うとともに、日本大学においても昭和4年(1929)から工学部講師として砂防工学を講義した。内務省で砂防事業の執行に専心する一方、若き砂防技術者の育成にも努力した。 |
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6.砂防工事全体計画の策定
赤木は、砂防事業を計画的に実施するため、昭和2年(1927)に砂防工事計画書を全国的に統一し、昭和11年(1936)には砂防工事全体計画を策定した。わが国初めての具体的な全体計画となり、以後、内務省の砂防事業は計画的に事業が実施されるようになっていく。 |
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7.時局匡救事業と全国治水砂防協会の設立 砂防事業が人目につかない山奥で行われ、一般の人達に砂防事業の重要性の認識が乏しいばかりでなく、議会や国会議員の間でも、また内務省内でさえそのような状態であったが、昭和7年(1932)から始まった時局匡救事業(農村匡救事業とも言われる)は砂防事業に恵まれた状況をもたらした。昭和4年(1929)のニューヨーク株式取引所の株大暴落に端を発した昭和大恐慌は、都市部での企業倒産等による大量の失業者の発生と農村への流入、農産物の価格の大暴落、そして冷害と凶作が追い打ちをかけ、農村が特に疲弊した。政府が対策として実施した昭和7年(1932)~昭和9年(1934)までのこの事業で、砂防予算が飛躍的に増額された。 しかしながら、この事業が終了する昭和10年(1935)には砂防事業費はもとの少額予算に戻り、これに大きな危機感を持った赤木は、砂防事業に対する国民の理解を深め、今後の砂防事業の発展を図るためには、砂防協会を結成する道しかないと決意し、昭和10年1月に市町村を会員とした全国治水砂防協会を発足させる。 (昭和9年の室戸台風災害を契機に、砂防事業の効果を体験した長野県の県会議員が赤木に砂防協会の全国展開を求め、全国治水砂防協会が設立される経緯は当協会ホームページの砂防協会のご案内の沿革に記されている)。 |
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8.砂防事業発展を期して 昭和9・10年(1934・1935)連年の大災害で大きな被害を受けた京都府雲原村の西原亀蔵村長は、衆議院予算委員長や大蔵大臣に水源地域の砂防の必要性を訴えるとともに、内務省の赤木を訪れ、農村復興と合わせた徹底した砂防工事の実施を求めた。赤木も西原氏の熱心な行動に触発されるように、砂防事業の必要性を要所、要人に訴え、ひとりでも多くの人に砂防の実態を知ってもらうことが砂防の予算を増額する上で欠かせないことだと考え、国会議員、特に貴族院議員との懇談を深めていった。こうして国会においても砂防事業の拡充が強く論議されることになっていった。 組織では、昭和13年(1938)8月12日には念願の砂防専管の第3技術課が設置され赤木が初代課長に就任した。一方、府県でも砂防事業量の多いところについては砂防課を設置するよう昭和14年(1939)、土木局長から地方長官に要請が行われ、直ちに、長野、京都、兵庫、広島などの7府県に砂防課が設置され、その後順次増えていった。 戦局が慌ただしくなってきた昭和16年(1941)9月6日に内務省土木局が国土局と改められ、これに伴って第3技術課は廃止され、砂防は河川課所管となった。昭和11年(1936)に勅任官に任ぜられていた赤木は、課が廃止されてからは河川課の砂防担当の勅任技師に戻り、引き続き全国の砂防を統括した。 |
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9.内務省退官と砂防会館の建設 昭和17年(1942)3月24日内務省を退官した赤木は、溜池の三会堂にある協会事務室で砂防協会の仕事に専念するとともに、「協会の永続発展のためには、維持の財源を会費だけに依存するのは危険であり、協会の独立自存のため」、また「砂防協会の総会などの行事が自前ででき、しかも会員の便宜のため」 独自の会館(砂防会館)の建設が必要であると考えるなど、砂防進展のための活動をさらに進めた。(砂防会館建設の経緯は当協会ホームページの砂防協会のご案内の沿革(関連記事—砂防会館の歴史)に記している)。 |
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10.国会議員 |
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貴族院では「国土計画審議会臨時委員」に任命され、続いて参議院では予算委員会委員や建設委員会理事などを歴任し、昭和30年(1955)12月2日から昭和31年5月29日まで建設委員会委員長を勤めた。また、昭和27年(1952)11月8日「立太子の礼及び成年式につきたてまつる賀詞案起草特別委員会」の委員長も経験している。政府では昭和23年(1948)10月26日~昭和24年(1949)2月16日及び24年(1949)2月23日~6月1日の2度、建設政務次官に就任した。赤木は参議院議員退任後も事あるごとに、国会に参考人として招請され、学識経験者として意見を述べている。 |
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11.天皇陛下へのご進講 昭和23年(1948)11月12日午前、赤木は宮中において天皇陛下に「砂防工事と治水」につきご進講した。陛下の熱心な質問などがあって、1時間半の予定が3時間にも及んだ。この時のご進講の赤木自身の原稿は、小冊子にまとめられ赤木記念館に保存・展示されている。この小冊子に河井彌八が次のような序文を記している。 「私は昨年11月27日計らずも 天皇皇后両陛下の御日常の御晩餐に御相伴を仰せ付けられました。洵に一生の光栄でありまして感泣に堪へません。御席上では両陛下よりいろいろの有難い御話を伺ひましたが、その中特に強く感じましたことは 天皇陛下から このあいだの赤木博士の砂防に関する講話は実に有益であった、との御満足の御言葉でありました。又、博士御進講の内容が、治山治水の根本に亙って極めて該博的確であったことが、畏こきお言葉の中に拝せられました。」 そして赤木は「(前略)陛下が年々の災害につき深く憂慮遊ばされ、これを防除する方途として水源山地の植林と下流河川の工事の外に砂防工事の重要性につき御関心を給わったことはこの上もなく有難いことと感激して、一層砂防に邁進の意を新たにした(後略)」と述べている。 |
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12.ローダーミルクとSABO 戦後、荒廃した国土は各地で大きな災害が発生した。トルーマン大統領直属の最高技術委員会委員長のウォルター・C・ローダーミルクが「水資源と土地利用」の専門家として来日し、各地を視察した。中でも、カスリン台風で大きな被害を出した利根川とその水源の赤城山の災害に大きな関心を示すとともに、日本の砂防技術を賞賛した。ローダーミルクは、帰国前日の昭和26年(1951)4月29日、赤木と2人だけの懇談で、「砂防」を国際語にすることを提案した。そして、この時の約束通り、ローダーミルクは昭和26年(1951)8月24日ブリュッセルの国際水文学会で「Sabo Works」を世界共通語にしようと提案し、SABOは国際語となった。 |
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13.「砂防一路」の生涯
昭和47年(1972)9月24日、赤木は砂防一路の85歳の生涯を閉じる。天皇陛下より勲一等瑞宝章を授けられ、従三位を贈られた。治水院殿堰厳正雄大居士。鎌倉報國寺に「砂防の神様・砂防の父」赤木は眠る。 |
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年譜 |
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